2024-04-13

小津夜景×下西風澄トークイベント『ロゴスと巻貝』をめぐる風景





5/11(土)20時より、東京の三軒茶屋にあるtwililightで『ロゴスと巻貝』刊行記念イベントが開催されます。タイトルは「ロゴスと巻貝をめぐる風景」。ゲストにお迎えするのは哲学者の下西風澄さん。当日は下西さんに『ロゴスと巻貝』をご案内いただいたのち、本書で取り上げた作品を軸に、ジャンルを自由に横断する本との関わり方についてお喋りする予定です。

今回のトークイベントは連続企画で、東京では2回開催されます。場所とお相手はそのつど変わって、もう一人は本ができあがる前からお願いずみの方。で、一ヶ月くらいまえでしょうか、担当編集者のKさんに「小津さん、せっかくの機会ですのでもう一日イベントやりましょう。どなたか話してみたい方はいますか?」と質問され、おずおずと下西さんのお名前を挙げたんです。そしたらなんと先方がお引き受けくださいました。わたしのような不束者のためにお時間を割いていただくことにすごく恐縮しています。あまりに恐縮しすぎて「あの。ええと、前もってオンラインでご挨拶したほうがよくないですか?」とKさんにメールしたら、わたしの弱気を察してくれて、来週ご挨拶することに。

そんなわけで、みなさまのご参加を心よりお待ちしております。チケット購入は下のXのリンクからどうぞ。

2024-04-10

第3回 現代俳句を舌で味わう〜小津夜景『花と夜盗』に寄せて





《info.1》4月8日『カモメの日の読書』が4刷になりました。皆々様に熱く御礼申し上げます。

《info.2》『すばる』5月号の空耳放浪記は「引用のメカニズム」と題して、まつおはせをの一句についてあれこれ空想してみました。

《info.3》松本にあるbooks電線の鳥主催の連続企画「第3回 現代俳句を舌で味わう〜小津夜景『花と夜盗』に寄せて」の日程と内容が決まったとの連絡をいただきました。日時は2024年6月16日(日)12時頃から17時頃まで、会場はゲストハウス東家。今回は「水をわたる夜」を題材とし、「めしつくるひと」木内一樹さんによる料理、権頭真由さんによるピアノと上條淳香さんによる書の即興実演、小林智樹さんによる漢字解説といった演目が繰り広げられます。ざっと5時間に及ぶ盛りだくさんの内容で、参加費は4200円、定員は15名(小津は出演しません)。料理人の木内さんは文章も面白く、お品書を拝読するのが楽しみ。権頭真由さんは寓話的世界観が曲名にまで行き渡った作風で、ライブでは観客が観た夢の内容を書いて渡すと瞬時にその夢を音で紡いでしまうとの噂。書の上條淳香さん、漢字解説の小林智樹さんにもお礼を申し上げます。詳細は画像でどうぞ。

2024-04-05

私たちは今なお歩みを止めない





冊子「書肆侃侃房の海外文学」に書評「私たちは今なお歩みを止めない」を寄稿しています。取り上げたのは高柳聡子著『埃だらけのすももを売ればよい ロシア銀の時代の女性詩人たち』です。企画展風に、じっくりと詩を鑑賞することのできる本でした。

廬を結びて詩境のはずれに在る身としては「女性詩人」という言葉を聞くたびにむず痒い気分になります。けれど「女性」というカテゴライズを外してただ「詩人」と呼べばこの問題が綺麗に片付くかというとそうではない。なぜならわたしたちは、ただの「詩人」として発想すると同時に「女性詩人」という軛の中で書くことの意味を考え抜いてもきたから。つまり「女性詩人」という概念は、そう名指される側からすると「自由と軛とをめぐる省察」の歴史そのものであり、そこには今後も記憶・継承すべき言説がたんまり存在する。「女性詩」という概念の破棄を目指しつつも歴史は忘却しない。概念の彼岸へと、わーいと手ぶらで走っていくのではなく、道中のしかばねに献じる花籠を抱えるのを忘れないようにしたい、そんなふうに思います。

ところで、話は変わって先週のことなんですが、編集者のKさんと喋っていて『源氏物語』の話になったんですよ。で、思わず「わたし、紫式部に私淑してるんです。石山寺まで彼女の参籠した部屋を見にいくくらい。エッセイを書いていて行きづまるたびに彼女のことを考えます。彼女だったらどう書くだろうって」と言ったんです。すると「小津さんから紫式部の話を聞いたのって初めてかも。そんなに好きなんですか」とKさん。「はい。デビュー作の冒頭も『紫式部日記』を物真似しちゃってます。なんの文学的仕掛けでもなく、ただ自分の気分を上げるだけのために」とわたし。そんなわけで、ええと、こんな感じ。

秋のけはひ入り立つままに、土御門殿のありさま、いはむかたなくをかし。池のわたりの梢ども、遣水のほとりの草むら、おのがじし色づきわたりつつ、おほかたの空も艶なるにもてはやされて、不断の御読経の声々、あはれまさりけり。やうやう涼しき風のけはひに、例の絶えせぬ水のおとなひ、夜もすがら聞きまがはさる。(『紫式部日記』)

ふみしだく歓喜にはいまだ遠いけれど、金星のかたむく土地はうるはしく盛つてゐる。たちこめる霧。うちともる吾亦紅。水にせまる空木のえだぶり。やすらぐ鳥の葉隠れのむれ。眼に見えるものはいつでも優しげだ。鳥は暗い音色で呼ばひあふ。そのかすかなのどぶえが静かな朝の空白にこんなにも息吹を吹き込むものだから、誰もゐないはずの庭は記憶に呼び出されたまれびとで今やおびただしい。(小津夜景「出アバラヤ記」)

2024-04-02

柩となりし船と船とは





『九重』5号掲載の高山れおな「百題稽古 其三のうちの恋」は六百番歌合の題で組題百句を作ってみせるという趣向。これが華やかでありながら軽い。まるで見えない部分に金糸が縫い込まれているかのような、ワインでいうならブルゴーニュかと見せかけてロワール地方の味わいをもつ連作で、それが川のように滔々と流れていきます。

寄絵恋 金地戦闘美少女図襖とはこれか

いわゆる「とはこれか」俳句。この型では冒頭にどんな言葉をもってくるかが見所ですが、いきなり初句七音で「金地戦闘」は超ゴージャス。中八「美少女図襖」の音密度の高さや文節の切れ方もよろしく、いよいよ期待を裏切らない。で、結句は驚きと呆れを含みつつ、すこんと抜く。雅俗の交雑が文句なしの句。

寄鳥恋 川波や夢みよと恋教へ鳥

「恋教へ鳥」(セキレイの古名)の句跨りと体言止めが雅趣たっぷり。初句「川波や」も痺れます。この語のイメージの弱さ、儚さ、ありふれた感じがかえって切なさを煽るんですよ。またこの句の場合は「恋教へ鳥」の印象が浮き出るようにするという意味でも初句は立てない方がいいですよね。川、波、夢、恋、鳥といった月並みな名詞をずらりと並べて優雅に踊らせてみせる技量もたまりません。

ちなみに『九重』5号には高山れおなインタビューも載っています。聞き手は「月刊狂歌」編集部の花野曲。月刊狂歌って…んな阿呆な。まあ冗談企画ですけれども、題詠と俳句の相性についてなど得心する点が数多く、読み応えがありました。

佐藤りえ「恋すてふ 贋作恋十二題」は高山さんの趣向をさらにひねり、詞書にさらに俳句を添えた短歌連作。

漂恋 月の夜の蹴られて水に沈む石 鈴木しづ子
追憶のついぞ変わらぬ水の上補陀落渡海の船を寄せ合う

死の国に旅立つのに、船を寄せ合う。なんというむなしさでしょうか。りえさんは俳句を書くときと短歌を書くときとで人格の現れ方がはっきりと変わる書き手で(これはもちろん詩形の側にその原因がある)、俳句のときは立体デザイナー的な感性が全面に出る。読者としては知的な喜びを感じます。かたや短歌は本音を聞いているような読み心地で、いかなる本音かというと、それは虚しさです。りえさんの短歌はしょっちゅう虚しい。でもこの歌を読むと、その虚しさこそがついぞ変わらない水の上の追憶を輝かせていることがわかります。それぞれが個別の追憶を生きながら、孤絶を抱えながら、遠く流されながら、柩となった船と船とは、それでも触れ合おうとするのです。

寄橋恋 踊り疲れて白夜を帰る橋がない 永井陽子
船形のお菓子を買って帰る宵 橋の嘆きをたしかに聞いた

「嘆きの橋」(ため息橋)といえばヴェネチア。この呼称は、犯罪者が投獄される前に見るヴェネチアの最後の景色がこの橋の上からであるために、彼らが深いため息をつく橋としてバイロンが『チャイルド・ハロルドの巡礼』でBridge of Sighsと呼んだのがその初め。で、それをひっくりかえし「橋が嘆いている」設定にしたのがこの歌。思うにこれは、地元では日没時、この橋の下でゴンドラに乗り、恋人同士が接吻を交わすと永遠の愛が約束されるという言い伝えがあるから。語順を逆さにするだけで、言い伝えに反する恋人たちの運命を見続けてきた橋の呻吟が聞こえてくるというトリックアートが面白い。それにしても舟形のお菓子の霊力ってすごいんだなあ。

2024-03-28

ファンファーレを胸に秘めて





前の日記に書いた冬泉さんの誕生日祝い連句、羊我堂さんが画像にしてくださいました。燕がかわいい。そしてみんな相変わらず芸達者。わたしは根っからの地味な性格なので、この華についていくのがたいへん…。

毎晩、布団をかぶって「ああ。明日の朝ごはんがたのしみだなあ」とわくわくしながら眠りにつく。今朝の主食ははじめてのパン屋さんのパン・ド・カンパーニュで、手造りの石窯で焼いたという味はまあまあ。まあまあ、はわたしの中ではかなりいいほう。午前中は水野千依『イメージの地層』を読みながら原稿書き。昼は水餃子をつくる。皮がぶ厚くてごろごろしていた。午後は4キロ走ってヨガをして服を着替えて電車にのる。向かい側に腰掛けている9歳くらいの少女が一心不乱になにか読んでいた。そっと盗み見るとアガサ・クリスティ『そして誰もいなくなった』。おおっ。思わず心の中で、

てれれって
とろろっと
ぷるるっぷ
たったー

と盛大なファンファーレを少女に捧げ贈る。ほわんほわんと反響するファンファーレを胸に感じながら電車を降りて、図書館で原稿の続きを書く。夜は写真の整理をする。4年前にはじめたインスタグラム、根気がなくて上手く活用できていなかったのだけれど、これから週2回は投稿したいと思っている。

2024-03-21

七曜の断片





月曜日は山本貴光さんの新刊『文学のエコロジー』を読む。作品をするすると解析していく手つきが爽やか。「鮮やか」ではなく「爽やか」と書いたのは、文学批評にまつわる特殊な概念や装置がとても控えめにしか用いられていないせいか、語と語のどの接合部分にも胡乱な(投機的ないし山師的な)摩擦熱が発生していなかったから。単語間の配列が端正で読みながら清々しい気分になる。でもって火曜日はリチャード・パワーズ『舞踏会へ向かう三人の農夫』を読んだのだけれど、こちらは胡乱上等、怪しさ満点、暴飲暴食もかくやとばかりの荒ぶった言語運動。水曜日は春物の上着と靴を探しに街へ。上着はゴアテックス素材のトレンチコート。靴はカルフのMESTARI CONTROL。配色はSILVER LINING/TRUE NAVYにした。ついでにツヴィリングの包丁も購入した。高くてびっくりしたけれど思い切って買った。包丁を買ったのは生まれて初めて。大学入学の折と結婚の折に母が揃えてくれたヘンケルスと有次の包丁をいままで使い続けていたのだ。

先日は冬泉さんのお誕生日だったらしく、「いつもの連衆で表合でも巻いて贈りませんか」と声をかけてもらう。わたしは花の座の担当。

まれびとは全部伴天連花の茶屋

「全部」って表現どうなのよ、とちょっと思うけれど、わたしは音からつくるのでしばしばこういうことが起こる。中七は賑やかな和音風にしたかったらしい。

『すばる』4月号はティータイム特集。わたしもそれに便乗してキャロブ(いなごまめ)からコーヒーをつくる話を書いた。キャロブのコーヒーって自分には全く馴染みがないのだけど、年末にギリシャを旅した折、かの地の食材を眺めていたら「Carofee」という商品名で普通に販売されていた。ギリシャ人にとってのキャロブはフランス人にとってのシコレみたいなものなのかしら。以下の写真はル・コルビュジエの休暇小屋に立っているキャロブの木と拾った莢。

2024-03-09

『ロゴスと巻貝』刊行記念歌仙「初凪の巻」



『ロゴスと巻貝』刊行記念歌仙「初凪の巻」が満尾しました。わたしも挙句だけ参加させてもらっています。


『ロゴスと巻貝』に登場するモチーフが主旋律。そこへ句集『花と夜盗』をフレーバーとして使っていただいたようで。ありがとうございます。しかしそれにしてもみなさん上手い……いや本当にこれ上手すぎやしませんか? やりたい放題なのに独りよがりじゃない。次の連衆がうちやすいボールをちゃんと上げていく。博愛と連帯を感じさせるという意味でとても美しい歌仙です。わたしの挙句は神祇釈教も用意したのですが、 冬泉さん曰く「りゑさんの「巫山戯」がその役を果していると解しましょう」とのことで紙風船の句が採られました。

ガザを知らない二十四時間 冬泉
×○(ミッフィーのくちびるドラえもんのはな) 羊我堂
奢霸都館開店行列冷まじく りゑ
許されぬ恋だとばかり思ひ込み 岳史
喜喜昔圖古茶壺(ききとしてむかしゑがいたふるちやつぼ) 未来
エピタフのtu fui ego eris すり減つて 季何
確定申告ボイコットすれば花 胃齋

2024-03-08

強い夢、あるいは何かに向かおうとする心






嵐の去った海には石や木が散らかっている。岩の上で釣りをする家族、椅子に座ってお茶する女たち、家づくりをする少年たち、皆それぞれに遊ぶ。


誰かが積んだ石の塔。


別の場所にも家をつくる少年がいた。


原始と抽象とのあわいに心が立ち現れる。強い夢に似た、何かに向かおうとする心が。