2018-01-27

コーヒーは、濃い目がいい。






自由律俳句の結社『海紅』はこの新年号で1166号なんですね。老舗雑誌とは思えない可愛いデザイン(隣に置いてみたのはてぬぐい)です。俳句以外では若木はるか氏のエッセイ「至福の食卓」がすごい迫力でした。

* * *

星を吸うミネラルウォーター並ぶコンビニ  木内縉
また逢う約束のコーヒーは濃い目がいい  熊谷従子
二〇一七ページにそれと分かるしおり  小早川すすむ
海の訛り消えぬ一羽  さいとうこう
秋の夕暮れ少しちぎって手帳に挟む  杉本ゆき子
たわわぶら下げ秋の枝は  中塚唯人
お気に入りのアップリケは天使でした  杉本ゆきこ
お弁当うまい思わずお茶入れ替える  千田光子
楽園の入口で切符がない  正木かおる
さまよえる卵がけご飯の朝  本間かもせり
香の森ウヰスキー柔らかい鍵  石川聡
月山冠雪おかえりなさい  若木はるか

2018-01-23

文芸評論とはフリースタイルである・後編



批評という大きな海に、かつて(ううん、きっと今も)大小さまざまの多元的な島があり、ゆるやかな規則とそれぞれの習慣とを互いに照応させつつ、その中で文芸評論もひとつのオートノミーを営んできたという素朴な歴史  

ところで、こういった趣旨の文章を書くことについて、実はかなり強いためらいもあります。

というのは、わたしは文学に全く思い入れがないのです。

つまり、思い入れもないのに語っていいものか、といった純粋な躊躇ですね。

自分の興味は文学でなく言葉。そして音楽です。たとえ意味がぬぐいさられてしまっても、そこに残る闇と光。そして響きです。

そして、理解では辿りつけない丘の上に、大きな虹のようにひらく〈発光する痕跡〉を掛けてみたいな、と思うのでありました。

2018-01-18

雪の結晶



しおたまこさんデザインの箱。去年スピカで「かたちと暮らす」という連載を担当した際、書こうと思って書けなかったのをさっき思い出し、写真を載せてみました。

雪の結晶を図案化したのだそう。

箱の中には、まこさんデザインの洋服が入っていました。いちど東京でお目にかかったとき、まこさんはこの洋服の赤いヴァージョンを完璧に着こなしていて、とてもキュートでおしゃれだった。

2018-01-17

玩具的に。





ある人のおうちで実演してもらって、あ、面白そうだなと思ったのを、そのまましばらく忘れて過ごしていたのですけれど、先週末にフライングタイガーで見つけて思い出し、ふらっと買ってしまいました。

腹筋ローラー。めっちゃかわいい道具ですね、これ。

楽勝だと思ってたのに、まだ一回もできません。腹筋以前に、まずもって上腕筋の力が要るみたい。

でも、すごく嬉しくて、ことあるごとに戯れています。玩具的に。

2018-01-16

冬のホテルで、夕日を眺める。




港近くの丘にあるホテル。その一室から夕日を眺める。

* * *

幼稚園を三回、小学校を三回転校したのだけれど、同じような場所は一つもなかった。

一番ショックだったのが、8歳のときの先生。この先生は授業をすぐ自習にした。

今日は自習だよ、と先生が言うと子供たちは歓喜の声を上げる。そしてみんな思い思いに遊びだすのだが、先生が愛用の楽器をとりだすとみんな遊びをやめて、わっと先生のまわりに集まる。

先生の愛用の楽器は尺八である。楽譜もちゃんと立てる。わたしはこのクラスに入って、生まれてはじめて尺八の楽譜を見た。

先生のライヴが始まる。子供たちはひとり残らず黙りこむ。

音楽を聴いているのだ。

わたしは子供たちの集中力に絶句した。そして自分だけが、近代教育に毒された、とても不純な存在であるように感じたのだった。

2018-01-11

ある冬の日の思い出





きのうは結婚記念日だったらしい。

同居人と一緒になって15年、思えば「夫婦の共同作業」的な会話をしたことがない。

唯一なされたそれらしい会話は、「僕と結婚してくれますか?」とプロポーズされた一週間後に「はい」と答えたことかもしれない。

彼がわたしの姓になった時も、事前になんの話し合いもなかった。

婚姻届を出しに行ったのは、べらぼうに天気の良い冬の朝。青空の下、ふたりで旧街道をぶらぶら歩いて役場に行き、夫となる人がなにやら記入しているようすを横からひょいと覗いたら、戸主が私になっていて、さらに彼の姓が変わっていたのだけれど、とくになんにも思わなかったので、そのままぼんやり眺めていた。

婚姻届を出したわたしたちは、別の道を散歩しながら帰ることにした。

雲ひとつない青空のどこに鳥がひそんでいるのか、のんびり歩いていると、さえずりが空中から降ってくる。

いつしか夫の実家に到着する。お昼ごはんは義理の両親が懐石料理に連れて行ってくれた。また晩ごはんは義母がお祝いの料理を作ってくれて、その日はとても楽しかった。

2018-01-08

はがきのステキさ。





牟礼鯨さんから『然』が届く。

『然』は官製はがきを使用した個人誌で、コンセプトは「一枚刷のようなリトルプレス」。ご本人の近況、地域の景観、俳句などが載っています。文章の縮約具合が凛と美しく、デザインもフォントも収まりがよく、昔の新聞の切り抜きみたい。

それにしても、はがきを俳句のメディアとしてつかうのって、すごくいいですね。

ふだんは俳句に限らず、何の雑誌を見ても、文字が多いなあとか、どうしてこんなに書くことあるんだろうとか、そもそもこんなに書かないといけないのだろうかとか、ふっと思うんです。

それがはがきだと隅から隅まで読める。それで特に情報が少なすぎる感じもしない。むしろこれこそ一回あたりの適量だと思うくらい。

その一回あたりの適量を演出する〈うつわ〉として、はがきというメディアはぴったり。お便りそのまんまの姿をしているので、貰った側のこころに届きやすいような印象も。

青空を複写してゐる半夏生  牟礼鯨

2018-01-03

考えることの効用



えっと、たしかスピノザが、

「人は決して苦しみから逃れることはできない。だが『なぜ自分はこんなに苦しいのだろう?』と考えているときだけは、当の苦しみを忘れることができる」

と言っているのですけど(スピノザじゃなかったかも。違っても怒らないでください)、これは本当にそう。

自分は若いころ、ちょっと病弱っぽくて、一度ならず地元をはなれて東京で入院生活を送っていたんです。それで17歳の新年も、ひとりさみしく新宿の病院の個室で迎えまして、

「あれ、もしかして今日で17歳?」

と、我に返ったことがあります(わたし、お正月生まれなのです)。で、そのとき、

「セブンティーンって、人生で向かうところ敵なしの年齢のはずなのに、まさかこんな絶望的な状態でその日を迎えるとは。やばい。ぜったいに完治しないと…」

と病院からの脱出を固く決意したのですが、思えばそのころが一番哲学書を読んだ時期でした。

考えることだけが、現実から解放されるモルヒネだったんですね。

ところで、なにゆえこんなことを書いているのかというと、下のツイートを見て、ああ、カフカ本人の小説もモルヒネ度が高いよなあ、と思ったから。この人の小説って何が書かれているのかよくわからないですけど、でも〈哲学する〉ための鉱脈にあふれている。

ついでに言えば、ブローティガンの小説もわからない。そしてやっぱり、その〈わからなさ〉の中に〈哲学する〉ための砂金が眠っている。この人に関してわかるのはその孤独と、孤独に打ち克つために想像の羽を思いきり広げようとする、いまにも壊れそうであぶなっかしい魂だけ。

…もう書くことなくなっちゃった。

言いたかったのは、想像力は、人が自由になれるただひとつの武器だよねってこと。ラヴ&ピース!

2018-01-02

謹賀新年





あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。